風邪を引いた時。
転んで膝を擦りむいて泣いた時。
出かけた先で眠気に勝てない俺と、兄ぃの帰り道。
いつもいつも。
兄ぃの背中は身体の弱い俺の特等席だった。
海行くか、と。
病室に来て座ってからしばらくして、兄ぃはそうぽつりと呟いた。
「海?」
「おう。外出許可取って、ちょっとだけ」
「この間潮風が冷たいから駄目ってお医者さんに止められたじゃん」
「・・・・・・うーん」
そうなんだけどな、と兄ぃは苦笑いを浮かべる。
海を見たい。
そう願ったのは紛れも無く、俺で。
だって、生まれてから一度も見たことが無かったんだ。
兄ぃはよく海に行くみたいで。
どんななの?と聞けば、楽しそうに海のことを話してくれる。
すっごく大きなこと。
川とか湖と違って水がしょっぱいこと。
波があって、海草とか貝殻とかビンとかそういうものを運んでくること。
ずっと向こうまで続く真っ青な水平線のこと。
聞けば聞くほど行きたくなって。
でも、潮風の冷たさは今の俺にはかなりの毒らしい。
お医者さんは首を縦に振らなかった。
もう少し暖かくなったら、行けるのにな。
自分の手元に目を落とす。
点滴の針が刺さったそれは、使わない所為で白く細くなっていた。
「暖かくなるのって、どのくらい?」
「そうだなぁ・・・俺とお前の誕生日が終わって、桜が咲き始めた位かな。ざっと、四ヶ月ってとこか」
「・・・ずっと、先だね」
肩を落としてそう言えば、兄ぃの大きな手が降ってくる。
わしわしわし、と。
乱暴に髪の毛を掻き混ぜ、俺の顔を覗き込んできた。
「一年待て、って言われるよりマシじゃねぇ?」
変わらぬポジティブシンキング。
でも、正論ではある。
頷いてみせれば再びわしゃわしゃと頭を混ぜられた。
外に目をやる。
ちらつく雪が景色を彩っていて。
普段は色とりどりの風景が自分の嫌いな白になってしまっていて。
思わず、ため息がこぼれる。
冬は、嫌いだ。
「どうした?」
「・・・・・・何でも、ないよ」
怪訝そうに見てくる兄ぃから目を逸らして俺はそう言った。
言っても分かるはずないし。
それに、兄ぃには余計な心配をかけたくなかった。
兄ぃだけじゃなく、茂くんにも太一くんにも、智也にも。
俺の心の内を話すことで、きっと全員が一緒に悩んでくれるのだろうけれど。
家計を支えるために働いている兄ぃと茂くんの負担にはなりたくない。
そう、思ってるのに。
兄ぃは一瞬眉を顰めて。
「悩みあんなら話せ。話せばちったぁ楽になるしな」
と。
わしゃわしゃ俺の髪を弄りながら、俺の心を見透かしたような言葉を吐いた。
だから。
「・・・人の悩みまで背負う余裕なんて無いくせに」
つい、そう言ってしまったんだ。
俺の髪を弄っていた兄ぃの手が止まる。
怒らせた。
咄嗟にそう、思った。
兄ぃは温厚で、太一くんに比べてあまり怒らないんだけど。
俺や智也がふてくされて太一くんの言葉に耳を貸そうとしない時。
すっと立ち上がった兄ぃによって、一喝された。
すげぇ怖かったことだけ、覚えている。
智也と俺、揃って泣いたし。
茂くんが間に入って来なかったらどうなっていたんだろうと思うくらい。
でも。
返ってきたのは、短いため息と。
「・・・ねぇよ」
俺の言葉を肯定する言葉。
「・・・兄ぃ」
「ねぇけど、背負うんだ」
どれだけ自分に余裕が無くても。
空いてるところが一つも無くても。
無理矢理でもいい。
俺は、背負う。
「それでお前が少しでも救われるんなら、背負ってやる」
言って。
兄ぃは俺に、にぃっと笑ってみせた。
優しくて、自信に溢れた笑みで。
・・・そうだ。
初めて兄ぃと会った時、この笑顔に救われたんだ。
どうしようもなくなっていた俺に、俺が居るから大丈夫だ、と。
何の確証も無いのに、自身有りげに笑うから。
だから、信じられた。
兄ぃが言うことは正しいんだと、無条件に。
実際、どんな無茶なことも、兄ぃはやってのけた。
小さい時、俺を背負って山に登ってくれたこともある。
お医者さんには子どもが人一人背負って山に登るなんて絶対に無理だ、と言われたのに。
当の本人は平然としてあんな綺麗な景色見たら昌宏の病気なんて吹っ飛ぶぜ、なんて笑って。
背中に俺と、緊急対処用の医療器具や薬と、登山用の道具をがっしり背負って。
高度のある山に躊躇いも無く足を踏み入れた。
酸素マスクをしながら見た山の頂上の景色は一生忘れない。
兄ぃの早い鼓動を感じながら、俺は確かに、雲の上に立ったんだと。
不可能を可能にしてくれた兄ぃの背中の上で、そう思ったんだ。
いつも信じてた兄ぃの笑顔。
信じないでどうすんだよ、俺。
「・・・笑わない?」
「おう」
「・・・・・・白」
「うん?」
「白がたくさんある冬は、嫌い」
「・・・それが、悩み?」
「うん」
素直に頷いてみせたら。
ぶはっと兄ぃが盛大に吹き出した。
「あああっ!笑わないっつったじゃんっ」
「ぅははははは!だって、お前、何その悩み、ガキじゃねぇかよ!」
「だっ、だから言うのヤだったんだよー!!」
ぷうっと頬を膨らませれば、悪ぃ悪ぃと返ってくる言葉。
絶対悪いって思ってないからこの人。
楽しそうな兄ぃの表情を見て、俺もつられるようにして笑う。
笑ったら、嬉しそうに笑い返された。
「お、笑ったな」
「え?」
「今日初めて見たぞ、それ。久しぶりだけどいいもんだな」
「・・・兄ぃ一番お見舞いに来ないからね」
「仕事から帰ったら疲れて食って寝るからなぁ。まぁお前が来て欲しいっつーんだったら無理してでも来るけど」
「誰がんなこと言うかよ」
「おう。それでこそ俺の弟。でも耳凄ぇ真っ赤お前」
「!!」
兄ぃの言葉に耳をバッと手で隠せば、また笑われる。
考えてみれば俺は今まで一度も言葉で兄ぃに勝った試しがないのだ。
お返しに何かを言おうとして、止める。
言ったって墓穴を掘るだけだし。
でも。
この空間は不思議と、居心地がいいんだ。
何でだろう。
兄ぃに笑われて、俺が不貞腐れて。
いいとこ一つもないっていうのに、な。
「・・・・・・兄ぃ」
「ん?」
「俺、あったかくなるまで頑張るから。だから、そん時はまた俺を背負って海まで連れてってね」
身体は大きくなってしまったけれど。
甘える年でもなくなったけれど。
だけど、俺は。
ずっとずっと変わらずに、兄ぃの背中が大好きだから。
「おう」
返ってきた兄ぃの自信に満ち溢れる笑みを見て。
俺ももう一度、顔に笑顔を浮かべて見せた。
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2007.7.11