○月○日
いのっちが風邪引いた。
























































































































































なかなか起きて来ないな、と思って部屋に行ったら。
布団の中でいのっちがダウンしてたっていう。
弱々しくおはよー、と聞こえてきたから、おはようと返し。
一旦居間に戻って体温計を出し、いのっちに手渡した。






ピピッと電子音が鳴ったのを見計らって、いのっちから体温計を受け取る。
38度7分。
間違いなく発熱している状態。






「・・・馬鹿は風邪引かんって、嘘やったんやなー」
「あのー岡田さんそれちょっと酷い」






いのっち可哀想でしょー、と眉毛をきゅうっと悲しそうにさせる。
自分で言うな自分で。
可哀想なもんも可哀想じゃなくなるっちゅーねん。
救急箱を漁ってみたけど、風邪薬は無く、腹痛止めとか咳止めとかばっかりだった。
よく考えてみたら、この頃俺風邪らしい風邪引いてなかったなぁ。
本格的に風邪引いたら医者に行くし。
とりあえず冷凍庫に入っている冷えピタを持っていのっちのところに戻り、彼の額にそれを貼った。






「冷てー」
「文句言わんの。ご飯は食える?」
「・・・食べたくない」
「ん。じゃあ病院行くで」
「病院ヤダ。注射嫌い」
「子供かアンタは」






病院と聞くなり、布団の中に潜り込んでしまった。
注射嫌い、て。
この人はいつも風邪引いたら注射してたんだろうか。
俺は生まれてこの方、風邪で注射なんてしたことないけど。










「・・・注射、せぇへんって」
「・・・・・・」
「ずーっとこのままやったら辛いやろ?」
「・・・・・・うん」
「風邪薬貰って、帰るだけやから」
「・・・ホント?」






ひょこ、と目元だけを出して俺の顔を見てくる。
頷いて見せれば、ホッとした表情。
注射が本当に苦手らしい。
・・・まぁ、俺も怖いっちゃ怖いけど。
大人になったんだから、と文句を言うのを止めた。
それが、当たり前だと思ってたけど。
いのっちは例外やったみたい。
っていうか、俺は何でいい大人に病院行く交渉してんねん。
阿呆か。










「岡田」
「なに?」
「岡田、母ちゃんみてぇ」






へにゃり、と力ない笑みを浮かべて、いのっちは嬉しそうにそう言った。
母ちゃん、か。
そういえば、いのっちって身内居るんやろうか。
こうやって好き勝手やっていられる年ではあるんだろうけど。
こんなに甘えたというか、子どもみたいないのっちが家族から離れる理由が俺には思いつかず。
変に聞いて傷つけてもあれだしな、と俺はその考えを振り払った。
振り払って、いのっちの頭をわしわしと撫でる。






「着替えたら病院な」
「うん」
「・・・一人で行ける?」
「一人で行ったら帰って来れねぇ自信がある」
「・・・分かった、一緒に行こ」






大の大人が断言することだろうか、それ。
そう思いながらも、いのっちだから、と変に納得してる自分が居る。
風邪引いた時は誰かに甘えたくなるもんだし。
その気持ちは、大人になっても変わらない。
一緒に行こうと言ったら、いのっちはとっても嬉しそうに笑った。
まるで、本当の子どもみたいに。















































































































































































病院に行き、内科で診察を終え。
後はお金を払って薬を貰うだけになった。
ただの風邪の診断に、ホッとする。
いのっち、ホームレスで保険証持ってないから。
それでも俺が医者にかかるよりはたくさんのお金がかかる。
・・・早く定職に着かんと、なぁ。
風の吹いて寒い自分の財布と睨めっこしながらそんなことを考えていたら。
隣に座っていたいのっちが小さくあ、と声を上げた。





「なした?」
「長野くんだ」
「・・・あの人が、長野くん?」
「うん、俺の友達だよ」






簡単に俺にそう説明すると、いのっちは長野くーん、と手を振り出した。
かなり大きな動きだったから、その長野くんはすぐに気づいたらしい。
近寄ってきた人は白衣に身を包んでいる、つまり、医者だった。
・・・医者の知り合いって、いのっちどんだけ顔広いんや。
にっこりと笑顔が綺麗なお兄さん。
いのっちの楽しい思い出の中に必ず登場する、彼。
胸元を見ると、精神科と書かれた名札。
ああ、そんな感じする。
身体を見るより人を見るって感じだ。
彼は近寄ってくるなり俺を見て、怪訝そうな表情になった。






「よっちゃん、この人は?」
「岡田。今コイツん家に居候してんの」
いのっちの説明を受け、長野くんは俺に向かってようやく笑顔を見せる。
「長野です。よろしく」
「あ、岡田、です」






初対面はやっぱり緊張する。
差し出された手に反射的に手を伸ばし、握手をした。
それだけで会話が続かなくなる。
俺の悪い癖だ。
でも、長野くんはそんな俺を理解してくれたらしい。
別に変な顔もせず、いのっちの方を向いた。






「風邪引いたの?よっちゃん」
「うん。でももう大丈夫だよ、診てもらったから」






あは、と笑みを見せるいのっちを、長野くんが撫でた。
そして、じゃあねと手を振ると、すぐに仕事に戻ってしまった。
お医者さんは忙しいんやなぁ。
ふと横を見れば、ちょっぴり寂しそうないのっちが居て。
さっきの長野くんのように撫でてやると、ふにゃんと笑った。








































































































































































































「長野くんはね、俺のお医者さんだった人なんだ」























薬を貰った帰り道。
コンビニで買ったものを詰め込んだ袋を振りながら、いのっちはぽつりとそう言った。
「・・・だった?」
「うん」
こくんと頷く。
精神科の長野くんに診てもらっていたってこと、だろうか。
いのっちが?
明るくて、人が大好きで、人懐っこいいのっちが?
困惑している俺を見て、いのっちは笑う。





























「俺ねぇ、昔は今みたいんじゃなかったのよ」











荒れまくってる有名な問題児だったんだと、言いながら空を仰ぐ。
その辛そうな表情に、胸が痛くなった。
辛い過去の一つや二つ、誰でも持ってる。
辛かったんか、と小さく聞けば、いのっちはふるふると首を横に振って、笑みを浮かべた。













「辛くないよ、もう」














全部終わったんだもん、と。
言ってのけるいのっちは、やっぱりどこか辛そうに見えた。
底抜けない明るさ。
天性のものだとばっかり思ってたけど。
いのっちにはいのっちの苦労があって、ここまで来てるんだな。
全部終わったこと。
ならば、俺が踏み込む必要は無い。
それに。









「俺の知ってるいのっちは、今のいのっちやからなぁ」
「・・・・・・うん」
「過去に何があっても、いのっちは今のいのっちやろ?」
「・・・・・・うん?」
「いのっちがいのっちなら、俺はええよ」
「・・・よく分かんねぇけど、俺は俺ってこと?」
「おん」








頷いて見せたら、首を捻っていたいのっちはキョトンとして。
暫く俺を見ていたかと思ったら、にへ、と笑った。
笑って、空いている方の手で俺の右手を握る。
うわ。







「何すんねん」
「手ぇ、繋いでる」
「いや、分かっとるけど」







大人同士が手繋いで歩くっていうのはかなり滑稽な図だ。
俺より一回りちょっと大きないのっちの手。
それがどうも繋いでいるってよりは、しがみ付いているようで。
その感覚に、俺は直感的にそれを振り払うことを止めた。
離したらあかん。
この手は今、繋いでいてあげるべきなんやと思う。










怖がってる子ども。
迷子の子ども。
甘えん坊な子ども。
いのっちから大人というイメージが湧かない。
だから、繋いだ手からも段々と違和感が消えていく。








「・・・大きな子ども、やなぁ」
「まぁね」
「早く親離れせんと、大変やで」
「しばらく離れるつもりはねぇぞ」
「・・・まぁ、ええけど」
「いいんだ」






ホッとしたように笑ういのっち。
俺は諦めてそう言ったのに。
いのっちは離れなくていいと言われたことが嬉しかったみたいで。
繋いだ手をぶん、と大きく振った。
































































































































帰ってきていのっちをパジャマに着替えさせ、布団に寝かせる。
ちなみに、この着替え一式等の服類は、実は坂本さんのお下がりだったりする。
いのっちが来た日に、坂本さんに一応報告をと思って、彼に話をしたら。
ホームレスじゃ洋服の替えが無いだろうって言って何着かくれたのだ。
下着類は俺がコンビニで買ってきたもの。
いろんな人に助けられて生きてんなぁ俺、といのっちが呟いてたのを思い出す。





























「・・・・・・あ」








コンビニの袋の中身を冷蔵庫に移していて、気づく。
冷えピタ買ってくるの忘れた。
冷凍庫を覗いてみたんだけど、朝使ったのが最後の一枚だったらしい。
いっつも使い回してるのに、いのっちさっきのぐっしゃぐしゃにして捨てちゃったからな。
あれがあると随分、楽だから。
俺は財布をポケットに入れ、ペットボトルを片手にいのっちの寝ているところに行った。
ことん、と枕元にそれを置くと、開く瞳。
空ろなそれを見ながら、いのっちの黒髪を撫でる。






「水、ここに置いとくからな」
「・・・どっか、いくの?」
「おん。近くのコンビニに冷えピタ買いに行ってくる」
「・・・・・・うん」






ぽへ、と熱に浮かされた目。
寂しがって駄々こねると思ってたけど、どうやらそんな余裕もなくなってきたようだ。
ぽんぽん、とゆったりしたリズムで布団の上から叩いてやれば、すうっと目蓋が落ちる。
布団を肩までかけて、俺は立ち上がった。
さっさと行ってこよう。
そんで、今日くらいはいのっちの傍に居てやろう。
そう思って、ドアを開けた。




























































































家から一番近いコンビニまでは5分もかからない。
目当てのものは冷えピタだけだったから、それを手にレジに直行して。
袋に入れてもらう時間さえ惜しく感じ、シールを貼ってもらって外に出た。









































「・・・岡田、くん?」




























急ぎ足で家に向かう俺の背に、声。
振り向けば、さっき病院で出会った長野くんだった。
スーツに身を包み、手帳を片手に笑顔を振り撒く。
ぺこり、と会釈すればそんなに硬くならなくていいよ、と言葉が振ってくる。
あー、これ、は。
俺の癖だからどうしようもないんやけど、ね。







「家って、この近くなの?」
「あ、はい。長野さんは・・・」
「俺?俺は今食べ歩き中」
「食べ・・・?」
「趣味なんだ。色んな店を回って食べ歩くの」






にっこりと人のよさそうな笑みを浮かべる長野くん。
持っている手帳はその情報が書かれているらしい。
へぇ・・・って。
そんな、のんびりしてる暇は無いんだった。






「すいません、俺、ちょっと急いでて」
「・・・井ノ原?」
「はい。何だか一人にはして置けなくて」
「・・・そっか」
「じゃあ、」
「岡田くん」






行こうとしたら、呼び止められて。
空いている手に名刺を渡された。
精神科医、長野博。
電話番号に住所、メールアドレスが表記されている。







「?」
「何かあったら連絡して」
「それって、どういう」
「井ノ原、まだ完治したわけじゃないから」
「完治?」
「・・・井ノ原から何も聞いてないの?」







怪訝そうな表情の長野くん。
まるで、聞いていないことが酷く悪いことのような、そんなニュアンス。
俺はカッとして、同時に頭が冴えていくのを感じた。







「別に、聞いてなくたってええやろ」
「岡田くん」
「いのっちは全部終わったって言うとった。だから、終わったことなんや。それ以上何を聞けばええねん」
「・・・君は昔の彼を知らないから、そう言うんだろう」
「昔のいのっちを知っても、俺は変わらん。いのっちは、いのっちや」






俺がそう言い切ると。
長野くんはビックリして。
そして、安堵の表情を浮かべた。
さっきまで浮かべていた笑顔とは違う、本心から出てきた笑み。
あまりにも穏やかで、ついそれに見入ってしまった。












「・・・よかった」
「え?」
「井ノ原が出会ったのが、君でよかった」











そう言って、長野くんは俺の肩をぽん、と叩く。
大きな手。
その動作と温かさで、俺は長野くんが人を見る職種についた人だったことを思い出した。







































・・・なんだ。
彼はただ、いのっちを案じていただけだったんだ。
俺がいのっちにとってどんな人物か、それを見ていただけだったんだ。
ふっと力が抜ける。
そりゃそうだ。
いのっちがあれだけ懐いてたんだから、嫌な人なわけがない。















































「・・・ペン、貸してください」
「へ?あ、いいけど」
はい、と渡されたペンを使って、名詞の裏に自分の家の住所を書く。
そして、長野くんにそれを手渡した。
「?」
「ここ、俺んちです。今度遊びに来てください。いのっちも絶対喜ぶから」
「・・・あぁ、そうさせてもらうよ」
言った俺に、綺麗な笑みが返ってくる。






笑顔を陽の光に例えるなら、いのっちが日向で、この人は夕日だ。
何もかも包み込んでしまえるような包容力のある笑顔。
俺のことを母親のようだと嬉しそうに言ったいのっちの顔を思い出す。
お母さんのような彼のそれが、いのっちは大好きなんだろうな。









「じゃあ」
「うん、またね」
その笑顔に見送られるようにして、俺はその場を後にした。






















































































































































































鍵を開けて、ドアを開く。
ただいま、と言うために口を開けた瞬間。
ドタドタと物凄い音が部屋の奥から聞こえて。
ビックリした俺に、これまた物凄い勢いででっかい何かが飛びついてきた。
何かっていうか、いのっちが。
子どもっていうよりは、犬やな。






「岡田遅いーー!!!」
「どこがや!まだ15分くらいしか経ってへんやろ?!」






俺の言葉に反論は返って来ず。
ただ、いのっちは俺にしがみ付いている腕にぎゅうっと力を込めた。
熱ぼったい身体。
背中をぽんぽんと優しく叩けば、少し力が緩む。






「・・・ただいま、いのっち」
「うー」
「冷えピタ、買って来たから貼って寝り」
「・・・すっげぇさみしかったよー」
「分かった分かった。今日はもう、ずっと家に居るから」
「・・・・・・うん」






冷えピタの封を切って、いのっちのおでこに貼っつけてやると。
いのっちはつめてーと朝と同じ反応をしながらも、とっても嬉しそうににへ、と笑った。
大きな子ども。
我が儘で、甘えん坊で、寂しがり屋の大きな子ども。








そんないのっちのおかげで、俺の世界はどんどん広がっていく。









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2007.10.13