この人生、意味の無いことなんて、何も無い。
苦しんで苦しんで、たくさん苦しんだ分だけ。
目の前に広がる光はきっと、目映いから。








































































































頑張れ、若者






















































































































退社時刻2時間過ぎ。
残業を終えた俺は、首を横に何度か折り曲げながら階段を下っていた。
途中、休憩所の自販機で缶コーヒーを買う。
がこん、と音がして落ちてきた缶を手にすると、ひんやりと手に持ったそれが俺の体温を奪っていく。
ここで開けて飲んでもよかったんだけど、会社内はどこか落ち着かなくて。
帰ってから飲もう、と決め、家に向けて足を進めていた。









かしゃかしゃかしゃ










電気が消え、暗闇が支配している部屋から、音。
帰宅しようとそこを通り過ぎかけた俺は思わず足を止める。
手に持っている缶を遊ばせながら、何の音だろうとひょいと覗き込んだら。
ぼんやりと明かりが一つ、見えて。
パソコンの前で必死に格闘している男が、一人。
よくよく見れば後輩の井ノ原だった。














ヤツは俺と同じ高校と大学を卒業し、同じ職場に入社してきた男で。
両親が早くに亡くなり、一人で暮らしているらしい。
そんな話を聞いたら放っても置けずに。
しばしば料理を振舞ったり、作ったものを家に持って行ったりしてやっている。
環境だけを見れば捻くれてたっておかしくはないのに、井ノ原は純粋そのもので。
明るくて素直で、誰にでも人懐っこく、いつもニコニコしていた。
友達が多いとは決して言えない俺に対しても、いい人なのにねー何でだろうねーと首を傾げていた。
まぁ、それは俺があんまり人間を好いてないからなんだけど。
井ノ原は人間っていうよりはどこか犬っぽくて。
だから、抵抗無く友達になれた。







『普段も先輩っていうのは堅苦しいから坂本くんでいい?』








普段は明るくて兄貴キャラのアイツが、子どもみたいな口調でそんなことを言ったもんだから。
弟が出来たみたいで嬉しくて、思わず首を縦に振ってしまった。
酒も飲んだし、愚痴も言ったし聞いた。
俺にとっては腹を割ることの出来る数少ない友達だ。














でも。
いつに無く真剣な顔、してんなぁ。
ニコニコしてる時が多いのと、仕事場が違うからか、井ノ原の仕事姿は初めて見る気がする。





































































「よぅ、井ノ原」
「あ、坂本く・・・先輩」
お疲れ様です、と立ち上がろうとした井ノ原を制止する。
「挨拶も敬語もいいって。勤務時間は過ぎてんだし、仕事途中だろ?」
俺の言葉にこっくんと頷く。
近づいて画面を見てみれば、どうやら新企画の企画書を作っているらしく。
積み重なった資料が井ノ原のデスクの大半を占め、それらに埋もれるようにして作業をしている。
残業するのを最初から計画していたのか、今日ヤツはコンタクトではなくメガネだ。









「頑張ってんなぁ」
「へへ。これ、初めて任された仕事なんだ」






そう話す井ノ原の表情は疲れが滲むも、明るくて。
俺も自分が初めて仕事を任された時は進んで残業したっけなぁ、なんてことを思い出す。
こうやって誰かが来てくれるとちょっと嬉しかったりして。
近くのデスクから椅子を引っ張り出し、逆向きに座って背もたれに腕を絡めた状態で井ノ原の横にずりずりと移動すると。
ヤツはぱたん、とパソコンの画面を閉じてしまった。







「おい、仕事は?」
「ん、坂本くんが来てくれたからちょっと休憩っ」
「うわ、邪魔したなぁ」
「気にしないでよ。それに俺そろそろ休憩しようかなーって思ってたとこだったから丁度いいんだ」





言ってふるふる、と顔を左右に何度か振った後。
おもむろにメガネを取ると、鼻の付け根辺りをぎゅうっと押さえつけた。
デスクワークは目にくるんだよなぁ。
アイスマスクとかあると結構楽になるんだけど、あるわけないし。












・・・・・・あ。














「井ノ原」
「なに・・・っぅわっ冷てぇっ!!」





手に持っていたものをぐいっとヤツの頬に押し付けると。
素で返事をした井ノ原はその冷たさにびっくんと大袈裟に反応した。
冷たいものの正体を見て、なんだよーと苦笑いする。





「コーヒーかよー」
「ん、そう」
「え何俺にくれるつもりで買ってきてくれたの?」
「んなわけないだろ。お前がここに残ってること知らなかったし」
「ですよねー」





笑いながら井ノ原は俺の手から缶を受け取り、目元に当てた。
あー気持ちいい、とため息交じりの言葉がもれる。






















あれ。


























「・・・どうした?お前」
「へ?何が?」
「両目とも二重になってんぞ」





言いながら顔を覗き込めば、坂本くんには敵わねぇなぁ、と顔を歪めた。
井ノ原が両目とも二重になるのは、決まってどこか具合が悪い象徴だったりする。
本人はいつも自分の調子が悪いことを隠そうとするんだけど。
この二重のおかげで、俺はヤツの調子に気づくのが人一倍早い。
他の人にはまだ誰にも気づかれて無いらしく。
心配されるのが嫌いな井ノ原は、俺に堅く口止めをした。
まぁ他のヤツに言わなくても俺が心配するけどね、って言ったら困ったように笑ってたけど。




















































































































































「・・・企画書、なかなかオッケー貰えなくてさ」




















想像以上に打ちのめされてるのかも、と井ノ原は呟くようにそう言い。
手に持っていたコーヒーの缶を開けて一口、飲んだ。






「おいお前、それやるなんて誰も言ってねぇぞ」
「何心の狭いこと言っちゃってんの」
「俺が飲みたくて買ったんだっつーの」
「えー・・・じゃあ、はい」





しぶしぶと飲みかけのコーヒーを手渡してきたから、俺もそれを口にする。
俺の手と井ノ原の頬の温度を吸収したからか、中身は少しぬるくなっていてお世辞にも美味しいとは言えなかった。
やっぱ要らねぇ、と缶を返せば、アンタってホント気まぐれだよな、と苦笑いしながら再び缶に口をつけて。
それを両手で持ち、足と足の間に下ろす。
同時に、ため息。







「時間ありったけかけてさ、自分ではどっからどう見ても完璧なのに、1分もしないうちに返ってくんだよ」








上司は学校の先生と違って直す場所を言ってはくれない。
自分で気づけ、と突き放すようにして返却される書類。
けれど、自分では納得しているものを訂正しろと言われても、戸惑うだけで。
似たようなものを持っていけば、当たり前だけど返ってくる。







「どうすりゃいいんだかわかんなくて、家帰っても全然寝れてねぇの」
しぱしぱとゆったり瞬きながら、井ノ原はそう言って。
ぐいっと缶の中身を一気に飲み干した。
そのまま、かっくんと地面に向けられる視線。
コイツらしくない、ネガティブ思考。





・・・いや、そうじゃないな。
ただ、井ノ原は見せなかっただけだ。
ネガティブな自分を見せないで、必死に笑ってたのかもしれない。
さすがにそれは俺にも分からない。
追い詰められて、追い詰められて、体調を崩して、初めて分かるから。
うーん。





























「ちょっと、見してみ」
「何を」
「企画書。出来たところまででいいから印刷しろ」
手を差し出せば顔が俺の方を向いて、怪訝そうな目線が返ってくる。
「・・・部署違うのに分かんの?」
「ここは俺が元々居た部署だって前に言わなかったか?」
「あ」
「それに、自分でうだうだ悩んでるより相談した方が早いこともあるんだぞ。一応俺先輩だし」
な?と促すように言えば、井ノ原はもそもそとパソコンを開いて。
印刷ボタンを押す前に、俺の方をチラッと見た。





「・・・・・・いいの?」
「いいさ。でも知り合いだからっつって手は抜かねぇかんな」
厳しく批評してやるよ、と言ってやるとぶん、と一つ大きく頷いた。














































































































印刷された紙は全部で13枚で。
その一枚一枚にゆったりと目を通していく。
読んでいる間、ずっと井ノ原の視線が俺の頬に刺さっていた。
ちらり、と目線をやれば、迷子の子犬みたいな目をしてたから笑ってやる。





「大丈夫だって。んな顔すんなよ」
「・・・うん」





わしゃわしゃと手を伸ばして井ノ原の髪の毛を掻き回してやると、ふわ、と笑みが戻った。
うん、お前はその顔がいいな。
なんて、満足して企画書に目を戻す。
大量の資料を積み重ねているだけあって、その内容は濃い。
けど。










「こんなに詰め込まなくてもいいんじゃねぇか?」
「んーと、例えば?」
「この企画書にはお前が言いたいこと全部詰まってんのはわかるんだけどさ、さすがに多すぎだ」











言いたいことは完結に、要点をまとめて書く。
俺が上司に教えてもらった企画書の書き方の基本であり、極意でもある。
簡単なようで、難しい。
気を抜くとすぐに、企画書の枚数が膨大な数になる。
特に、初めて仕事を貰った若い社員にはありがちのことだ。
井ノ原は真面目だからなぁ。








「ある程度まとめて書いて、言いたいことは口で言えばいいんだよ」
「そういうもん、かなぁ」
「そういうもんなの。っていうか先輩の言ってることなんだから信じろよ」
「・・・・・・うーん」








どうやらあんまり納得して無いらしい。
頑固だなコイツも。









「一回俺の言った通りにしてみろよ。どうせ行き詰ってんだろ?」
「うん・・・」
それはそうなんだけど、と言葉を濁して。
すぐにふと気づいた素振りを見せて俺を見る。









「もし、失敗したら?」









そこかよ。
っていうか失敗するの前提かよ。
・・・なんて突っ込んだってよかったんだけど。
ここは先輩としてぐっと我慢して。








「裏の居酒屋、奢りで慰めてやっから」
「ほんと?!」
「ほんとほんと」









急に元気になった後輩に頷いて見せれば、にぱっと笑う。
目、無くなってるし。
そんなにあの居酒屋好きなんだろうか。
安くて美味いから、俺も気に入ってるんだけど。
あそこのねぎまと豚串はたまんないんだよな。
居心地もいいし、回数行ってるからある程度の顔も無理も利くし。




















































































・・・・・・あー食いたくなってきた。






















































時計を見れば9時ちょっと過ぎ。
居酒屋が閉まるのが、3時。










・・・・・・行ける。














「話してたら行きたくなってきた。おい、早く終わらせろ」
「え、何が?どこに??」
「裏の居酒屋に決まってんだろ。12時までには行けるように頑張れ」
「ええええ?!急に言われても困るしっ!」
「あーもう仕方ねぇなぁ。俺も手伝ってやるから」
「わーい!坂本くんだいすきっ!」
「はいはい。馬鹿やる前に手、動かせ」















印刷してもらった企画書に赤ペンを走らせながら。
時折弱音を吐く後輩を宥めながら。
どうにか試行錯誤を繰り返した企画書が出来上がった時には、時計の針は1時を過ぎていて。
慌ててカバンを手に井ノ原を急かし、会社を出た。


































































































































































居酒屋に着いて、飲んで。
そっから先はあまり覚えておらず。
目を覚ました時には俺は自分の部屋に居て。
お腹の上にはご丁寧にタオルケットがかかっていた。
その上に乗っている、小さな紙切れ。































『昨日はどうもありがとう!あの企画書持って頑張ってくるわ!約束、忘れんなよ! 井ノ原』
























「・・・・・・汚ぇ字」











思わず、吹き出す。
まるでミミズがのた打ち回ったかのような字。
でも、アイツらしいっちゃアイツらしい。
ノートパソコンを抱えて自信満々に出社する井ノ原を想像したら、笑えた。










頑張れ、若者。
辛いことを乗り越えたら、きっと自分のためになる。
あのきらっきらした笑顔で戻ってくることを祈りつつ。
だけど、もし肩を落として帰って来たら、酒を片手にウザったくなるくらい背中を叩いてやろうと思う。
それが俺が出来る、最良の慰め方だから。
















「・・・俺も負けずに頑張りますか」
















久々に燃えてきたかも。
最近は同じ場所に居続けることに慣れてきたけど。
たまには頑張って違う道でも走ってみようかね。







ぐいっと伸びを一つ。
窓の外の青に目をやりつつ、髭の生えかけた顎を触りながら。
もう一度、アイツの阿呆みたいに平和な笑顔を思い出して、同じように笑ってみた。








同じかな。
・・・同じだと、いいな。









END



2007.6.15