俺の弟は目が見えない。
生まれつきじゃなく、突然の事故で見えなくなった。
両親と一緒に、新学期に背負って行くためのランドセルを買いに行った。
その、帰りの出来事。
当時小学5年生だった俺は学校に行っていて。
職員室で受けた突然の電話に耳を疑った。
対向車が急にスリップして、3人が乗っていた車に突っ込んだらしい。
警察の人の低い声がやけに耳について、未だに残っている。
病院に駆けつけた時、両親は既に亡くなっていた。
快彦も頭を強打して意識がない状態で。
泣きそうになりながらも、快彦の眠るベッドの横でじっと座って目が覚めるのを待っていた。
傍らにはぐしゃぐしゃになった黒のランドセル。
『よしくんはくろのランドセルがいい!まーくんとおそろいがいい!』
元気に家族全員にそう言っていた快彦が目に浮かぶ。
あんだけ元気だったのに。
俺にまとわりついて離れようともしなかったのに。
今は眠ったようにベッドに横たわっている。
身体中包帯だらけで、痛々しい姿で。
出来るなら泣き叫びたかった。
起きろよって喚きながらベッドごと快彦を揺らして。
身体中の水分がなくなってしまうくらい、涙を流したかった。
でも、俺にはそれが出来なかった。
両親が死んだことと快彦の現状にショックが酷すぎて、どうすればいいのかわからなくなっていたからだ。
泣き方も忘れてしまったように、ただただ呆然としてベッドを見つめていた。
放心状態の俺に見守られて3日後、快彦が目を開けた。
ホッとして駆け寄って、手を握って名前を呼ぶ。
その時の第一声が、忘れられない。
『・・・まーくん、どこぉ・・・?』
不安そうな声色で。
目の前に俺がいるのに。
きょろきょろして俺の姿を必死に探していて。
まーくんまーくん、と言いながらぼろぼろ涙をこぼした快彦に。
抱いた感情は、悲しみと安堵と小さな羨望だった。
こんなに小さいのに目が見えなくなってしまった弟への悲しみと。
助かってよかったという気持ちと。
素直に泣ける快彦の素直さが、正直羨ましかった。
つられて泣きそうになるのを必死で堪える。
だって、俺はお兄ちゃんだから。
快彦のたった一人の家族になったんだから。
俺がしっかり支えて、生きていかなきゃならないんだ。
快彦の目が視力を取り戻さないのだと医者に診断された時。
その気持ちはより強く、深くなった。
快彦の退院後、俺たちは叔父の家に預けられた。
身寄りもなかったし、世間を知らなかった俺はその手に縋るしかなくて。
快彦と一緒に彼の家に住むことになった。
叔父は目の見えない快彦を敬遠したがる人だった。
というよりも、彼の家族は全員、そういう目で快彦を見ていた。
目が見えなくてもそういう視線は感じるのか、快彦は前以上に俺にくっついて離れなくなった。
言ってしまえば朝起きてから夜寝るまで、ずっと一緒で。
少しでも離れたり、休日に学校へ行こうとするといかないで、と駄々をこねられて。
知らないうちに俺の気は狂っていたのかもしれない。
友達の約束だと言って、快彦を家に置いて遊びに行ってしまったのだ。
それでなくても遊びたい年頃で。
今となっては仕方ないことだったのかな、なんて思えるけれど。
遊びから帰ってきた俺が部屋に戻ると。
電気もつけず真っ暗な闇の中で、快彦が部屋の隅に小さく座っていた。
体育座りをしたまま眠っているその姿に、ホッとする。
一人でも平気なんだな、と。
そう、思って。
起きろ、と揺さぶるとんむーと変な声で呻いてぱちりと目が開く。
何も映さない瞳。
俺を見ているようで、見ていない虚ろな瞳。
ただいまって言ったらお帰りなさいって言って、快彦は笑った。
その笑顔に、俺は騙された。
騙されて、何度も快彦を一人にしてしまったんだ。
彼の気持ちを一度も省みることをせずに。
気づいた時には既に遅く。
快彦の笑顔は昔のような純粋さをすっかり失っていた。
泣きそうな顔で笑う、その顔を見て。
初めて、俺は自分がしてしまったことの愚かさに気づいた。
俺の好きだったあの笑顔は何をしても戻っては来なくて。
誕生日も。
クリスマスも。
遠足の朝でさえも。
快彦は壊れた笑みを見せて、俺に笑いかけた。
笑えば俺が安心すると、そう信じて。
そして。
大丈夫だよ、が口癖になった。
一人でも大丈夫。
留守番だって出来る。
電話とかインターホンには出られないけど。
出たって俺ここの子じゃないし。
変に出歩いたら邪魔になるから、部屋でじっとしてる。
寝てればすぐ昌行くん帰ってくるもん。
大丈夫。
大丈夫だよ。
だから、昌行くんは何にも気にしなくていいんだよ。
泣き出しそうな顔でそう言う快彦は、妙に大人びていた。
『快彦』
『なに?』
『俺さ、中学卒業したら働くから。お金溜まったらこの家、出るぞ』
『え・・・・』
『そんでさ。日中お前一人にすることになるけど、それでもいいなら一緒に暮らそう』
『・・・俺はいいよ。留守番得意だしさ。でも、昌行くんは・・・』
『俺は、出来ることならお前と一緒に暮らしたいと思ってる』
『・・・・・・うん』
快彦を支えるのが俺の使命。
たった一人の家族を守るのが俺の役目。
そんな変な義務感に追われるようにして、俺は走っていた。
進みたかったのは絵の世界。
絵を書くのが好きで、ずっと夢を持っていた。
それを、俺は全てなかったことにした。
自分の好きだったことも。
やりたいと思っていたことも諦めた。
スケッチブックも筆も絵の具も全て捨てた。
両親が買ってくれたクレヨンだけは、捨てられず手元に残ったけれど。
そして。
初めてのバイト代で介護士の資格用の本を買った。
少しでも快彦の力になれるように。
周りからはそう見えていたのかもしれないけど。
俺にとってはただの義務でしかなかった。
この道を歩むことが、俺に課せられた使命なのだと。
ただ、死に物狂いでそれに答えようと必死だっただけで。
結局、気づけば自分のためにがむしゃらに突っ走っていただけだった。
でも、そんな俺を快彦は何も言わずに見ていた。
鉛筆の音を聞きつけて、無理しちゃダメだよ、と言ったり。
俺の勉強する音が止むまで起きていたり。
目見えたら差し入れとか毛布とかあげられるのにー、と。
わざと明るい口調で声をかけてきたりした。
介護士の資格が取れたことを一番に喜んだのも快彦で。
おめでとうを連呼しながら一日中抱きつかれっぱなしだったことを覚えている。
その時に。
ああ、コイツも大きくなったんだなぁなんて。
すっかり重くなった快彦を抱いて、思ったことも。
にこにこ嬉しそうに笑った快彦を見て、この笑顔が見たかったんだと、嬉しくなったことも。
俺が20歳で快彦が15歳になった時。
俺たちは一緒に家を出た。
貯金は少ししかなくて、それでも俺はきちんと職が手にあったから。
何とかなるだろうと覚悟を決めて。
見送りはなくてもいいと思っていたから、朝早くにそっと家を出た。
叔父は俺たちが出て行くことを薄々感づいていたようで。
後から見た俺のカバンの底から、結構まとまった額の入った封筒が出てきた。
手紙は入っていなかったけど、俺にはそれが叔父の優しさに見えて。
電車に揺られながら少し泣いた。
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あれから1年が経とうとしている。
快彦と俺の二人暮らしはなんとか続いていた。
ただ。
快彦の笑顔はまだ、壊れたまま。
今朝も俺の結婚話から始まって。
自分が施設に行けば昌行くんは縛られなくて済む、みたいなこと言いやがって。
そんな顔してるうちは一人にしておけないっつーの。
立ち上がって頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜれば。
口を尖らせて文句を言い出す。
「ちょっ・・・何すんだよー」
「お前はもう・・・朝っぱらからんな顔見せるんじゃねぇっつーの」
「だって、昌行くんはずっと、」
「たーしーかーにっ!」
快彦の言葉をかき消すようにして声を張り上げると。
ビックリしたような顔で口を噤んだ。
「・・・・確かに辛い時もあるけど、お前が施設に行って今みたいな顔見せること考えたら屁でもねぇよ」
眉毛下げて。
平気だって無理矢理笑って。
本当は寂しいのに全然寂しくなんかないって強がって。
そんな弟、一人にしておけるわけねぇだろ。
ぐっしゃぐしゃになった髪の毛を優しく撫でてやると、快彦は小首を傾げた。
「・・・そんな顔してんの?俺」
「してんの。お前は昔っから表情豊かで気持ちがそのまんま出るからな」
「・・・ふぅん」
ふぅん、って無自覚かよお前。
そう突っ込みそうになって、止める。
この話題は触れないことに越したことはない。
ややこしくなって、また快彦が泣きそうになるのがオチだから。
「早く食え。冷めるぞ」
「・・・はーい」
何か言いたげなその返事も。
俺はあえて聞かなかったことにした。
「じゃあな、快彦」
食器を下げて、カバンを持ち上げ俺は快彦にそう言った。
途端、悲しそうな顔になり。
ぷるぷると顔を横に振って、笑顔を作る。
いつもと変わらない、壊れた笑みを。
「うん、気をつけて。仕事、頑張れよー!」
震える声。
でも。
それに俺が気づいちゃいけない。
一生懸命に俺に迷惑をかけまいと頑張っている弟の気持ちを無駄にしちゃいけない。
「おう。お前も大人しく留守番してろよ」
言ってまた頭をぐしゃぐしゃすれば。
壊れた笑みとは少し違った笑顔を見せてくるから。
俺は安心してその手を離し。
玄関に向かって足を進め始める。
「・・・・・・・・っい・・・」
不意に。
快彦の小さな声が聞こえたから、足を止めて振り向く。
そして驚いた。
その顔が今にも泣き出しそうに歪んでいるのが見えたから。
いつもは振り返らないから、わからなかった。
きゅうっと口の端に力を入れて、堪えている快彦を。
酷く抱きしめたい衝動に駆られる。
だけど。
抱きしめてどうなるのだろう。
快彦は泣きながらも仕事に遅れることを口にして、また自分を責めるんだ。
俺がいるから。
俺の所為で。
そんな言葉はもう聞きたくなかった。
「・・・・いってらっしゃい!」
「・・・あぁ」
必死にすり替えたであろうその言葉に。
俺は一抹の不安を抱えながらも家を出た。
家から20メートル。
足を進めて。
胸の中に残るのは振り返ったときに見た快彦の顔。
泣きそうな、それを堪えて無理に笑うような。
じりじりと痛む心。
今までに見たこともない表情。
・・・いや、本当はいつも見ないフリをしていたのかもしれない。
きっとあんな顔をしていることは、最初から知っていたんだ。
知っていたから見なかった。
見てしまったら、どこにも行けなくなりそうで怖かった。
実際、その予想は当たっていて。
俺の足はその場で前に進むことを拒絶していた。
戻らないと。
今、戻らないと後悔する気がした。
快彦が笑顔を壊してしまった、あの時のように。
仕事仲間の呆れた表情が目に浮かぶ。
この仕事をしてて遅れるなんて全くどうかしてるよ坂本くん。
彼ならきっとそう言うだろう。
すまん長野。
愚痴やお叱りなら大人しく聞くから。
ラーメンの一杯や二杯、奢るから。
今日だけは、行かせてくれ。
「・・・っっっっ快彦っ!!!!!!」
バンッと大きな音を立ててドアを開ける。
カバンを放り投げ、靴も乱暴に脱ぎ捨てて部屋に戻った。
そこにはしゃがみ込んで、しゃくり上げている快彦がいて。
光を受け付けない瞳からは、たくさんの涙が零れている。
俺は荒い息を整えながら彼に近づいた。
一人が嫌だと言ってくっついてきた快彦が、一人でも大丈夫だと笑うようになったのは。
俺が家族を守りたいと思うのと同じように。
快彦も俺という家族を守りたいのだと思ったのだろう。
小さな手で、暗い世界で必死に戦いながら。
自分ばっかりで周りが見えていなかったのは俺だ。
16歳にしては細く小さい体をぎゅうっと力いっぱい抱きしめれば。
「昌行くん・・・・?」
尋ねるように、驚いた快彦の声が耳に響く。
それでも、その手は俺の服をしっかりと掴んでいた。
「え、どうして?なんで??仕事は??」
「・・・仕事は、ちゃんと行くよ」
快彦の質問攻めに答えながらも、腕の力は緩めずに。
一緒にいる。
一緒にいるよ。
見えない世界でお前が伸ばし続けていた手に。
初めて俺が手を差し伸べた。
10年間、ずっと。
伸ばしては気づかれないようにそっと降ろしていたそれを。
俺は掴むことができたのだろうか。
胸元に顔を埋めるようにして、泣く快彦を見ながら。
今まで背負っていたものがガラガラと音を立てて崩れていく音を、どこかで他人事のように聞いていた。
END
2006.11.29